1945年、昭和20年の夏
 前の年から静岡県沼津の親類を頼って疎開していた。小学校(当時は国民学校)の3年生だった。4月に父が病死したので新盆、仏間に提灯が下がっていた。

 鎮守の森と小川と田圃に囲まれただだっぴろい屋敷で母と2才の妹の3人暮らし。18才違いの兄は横浜の病院に勤務していた。もともとは5人兄弟だったが姉と妹は疎開する前に相次いで亡くなった。

 戦争がますます激しくなり日本中あちこちで烈しい空襲が毎晩のようにあり、大勢の人が亡くなっていることは9才の僕も理解していた。久しぶりに訪ねて来た兄と母が「この戦争はもう長くは続かない…」と話しているのを聞いて「そうなのかも知れないけれど、でも何とかして敵をやっつけたい…」と考えていた。

 7月下旬の夜、空襲は突然だった。家からずいぶん離れたところにある[海軍音響研究所]が爆撃された。飛行機の通り道だったのか、何軒もないこのあたりにも焼夷弾と爆弾が豪雨のように降った。母が妹を背負い、僕は大切なものが入ったリュックを担いで庭の防空壕に飛び込んだ。

「ここに居ちゃ危ない、あっちの大きな川に逃げろ ! 」 

 知らないおじさんに怒鳴られて腰をかがめて道路を渡り8間道路沿いの川に首迄もぐった。目の高さに見えるアスファルトの道路にも焼夷弾や爆弾が炸裂した。そのたびに亀のように首を縮めたり伸ばしたりしてあたりをうかがった。足や腕や首がもげてしまった人が広い道路にたくさん転がった。ナゼか「怖い」という気持ちは起こらなかった。5時間程も水に浸かっていただろう、白々と明けてくる頃 B29 は去った。

 死んだ人達を跨ぐようにして家へ帰る途中、「こんなに大勢の人が亡くなった、川に入っていれば助かっていたかも知れないのに」と思った。「やっつけてやる」どころか、ただ隠れていたのが口惜しくつらかった。家屋敷はただの平らな泥んこの広場になっていて、勉強部屋や台所がどの辺だったのかすら分らなかった。

 そういえばゆうべ逃げる時にチラッと横目で見た座敷の畳に焼夷弾が何本も刺さって燃えその横に不思議と未だ火の着いていない[お盆提灯]がゆらゆらしていたのが記憶に蘇った。

「提灯、燃えちゃったね」と言ったのだが聞こえなかったのか空のかなたをジッと見あげて動かない母だった。

 

終戦、敗戦
 母は「横浜に帰ろうね」とずっと言い続け、汽車のキップを手に入れようと走り回っていた。幾日か野宿していた。焼跡からトタンを拾って来て囲いを作り、親子3人が縮こまっていた。そのみじめな風景は、昨今駅や公園や川べりに住んでいるおじさん達の段ボールハウスのほうがずっと家らしい、といったら想像できるだろう。

 7月の末、ようやく横浜行きのキップが手に入って早朝駅に向かった。子供の足で小一時間、駅は遠かった。途中、狩野川にかかる大きな橋の所で腰を下ろして休んだ。通りかかったおじさんが「焼け出されたのかイ?」と話し掛けて来た。「これ食べて元気だしナ」といって大きな桃を3つ呉れた。美味しかった。子供心に親切が沁み入った。横浜市鶴見の病院に勤務していた兄のところに辿り着いたのは暗くなってからだった。今、新幹線や東名高速道路で一時間程で沼津に行ってしまう人には到底分らない遠さ・・・。

 それから8月15日までの2週間は凄まじい爆撃と機銃掃射の連続だった。ザアーッ、という焼夷弾の落ちてくる音の間にドカーァン、ズシーン、と爆弾が落とされる。その合間を縫って操縦しているアメリカ人の顔が良く見える低さで飛んで来てダダダ、と撃ってくる戦闘機。怖い、というよりもニュース映画で見ていた戦争がいまここで行われているんだ、という緊張と戦慄のないまぜになったような気持ちだった。

 広島、長崎に原爆が落とされた後、横浜の空襲は日に日に少なくなり、10日を過ぎた頃からは飛行機は飛んでくるもののビラを落としたり低く飛んで写真を撮っているだけだった。「石を投げたら当たるんじゃないか」と言っている人も居た。

 ラジオの周りに集まって天皇陛下の声を聞いた時、その内容は分らなかったが大人の人が皆泣いているので「負けたんだ」と思った。

 56年が過ぎた。

 「今の社会は…、 今の子供は…  」と慨嘆する人は少なくない。けれどもこの56年間真剣に語り継いでこなかった責任が年長者にある。マイナスイメージばかりが喧伝され国旗や国歌を否定する人がインテリのように振る舞う。一方、サッカーや相撲を見る若者は夢中になって国旗を振り君が代を高らかに歌う。このギャップ、教師やジャーナリストや政治家にはどう見えるのか、評論家は気楽なものだ。

 遅すぎるかも知れないけれども、僕は忘れずに語り続けて行こうと思っている。

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