ロンドンで
 ローマ、フィレンツェ、ミラノ、ベルリン、ミュンヘン、アムステルダム、ロンドンでは大勢の日本人に逢った。出かける前に藤原義江先生、奥田良三先生、ベルトラメリ能子先生が沢山紹介状を書いて下さった。おまけに日本を出た途端[人見知り]でなくなる僕の得な性格もあって積極的にいろんな人と会い話した。

 話しながらもう一人の僕は
「錨を下ろすのだったらどの国にしようか、先生はどの人に師事しようか」
などと考えていた。中でも最有力はロンドンだった。飛行機で隣同士になった同い年の作曲家 Trevor がイギリス人で彼の考えに共感したせいもある。
「Jin は日本で大学を卒業しているのだし、そのあと10年もキャリアを積み、しかも[第九]までやっている、今さらこっちの学校(音楽院の事)に入るなんて時間が勿体無い」珍しい奴だった。
「世界中歩いていろんな音楽を聞きいろんな人に逢って脳みそに栄養を貯えろ…」
と、まるで有馬学長みたいな事を言う。

 ロンドンという町はビックリする程コンサートが多かった。その頃ニューヨークは未だ知らなかったけれど少なくとも東京より数も質も超えていると思った。初夏だったせいか気候も気に入ったし真面目で気位が高そうでそのくせ少しヤボったいロンドンっ子気質も気に入っていた。空の便も非常に多くここを拠点にすればヨーロッパ中日帰りできそうだった。それになんといってもここにはウインブルドンがある。

 そのまま居着いてしまいたかったが訪ねてみたい国も残っていたしその上東京にも急用が発生していた。ひとつは、国立で僕が担当している3年声楽の混声合唱がJ.フールネ指揮・N響定期の[ベルリオーズ・ファウストの劫罰]に出ることになったこと、もうひとつは大手町のサンケイホールが閉じる事になって最後のコンサートを<岡本仁と日本フィル>でやる、とマネージャーから連絡が入った事、それやこれやで夏前に一旦帰って出直そうという事となった。

 初訪問が1971年、それから1990年までのあいだ春には必ず、年によっては重ねて夏にもロンドンはじめ英国全土に20数回通う事となる。

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