デビューの頃
 東京交響楽団を指揮して正式にデビューしたのは1968年、32歳の時だ。日比谷公会堂は当時第一級のホール、音楽コンクールの本選や来日したカラヤンとベルリンフィル、トスカニーニ亡き後のNBC(シンフォニー・オブ・ジ・エアーと言っていた)などもみなここだった。

 大学を出てそろそろ10年。群馬交響楽団を振り出しに母校オケの担当のほかにも地方の国立大学や市民のオケなどに招ばれるようになりキャリアを積み重ねていた。
「そろそろキチンとしたコンサートを計画しましょう」
群馬時代からずっと教えて頂いている武蔵野の甲斐正雄先生が仰った。
「外国に勉強に行ってきてからでは遅いでしょうか」
国立を簡単に休職できない事を先生はご存じだ。
「留学の事はもう少し慎重に計画なさったら…」

 曲はブラームスの第一、ワーグナーのジークフリート牧歌、ラヴェルのマ・メール・ロワに決まる。ブラームスはそれまでに何度か本番を経験していたけれどあとの2曲は譜面を勉強しただけで心配。特訓をうけていよいよ前々日に東響の練習所に行く。ここへは学生時代から何度も練習を見学に来て馴れていたつもりだったがいざ指揮台に上がってみると全然違って足が震えて情けない。無我夢中の2日間だった。

 日比谷は満員、東響も熱のこもった演奏だった。自信があったブラームスより初めてのワーグナーとラヴェルが無難に仕上がり、反対にブラームスはあちこち勇み足のトチリをやって放送のために録音してくれていた同級生のM野君からクレームが付く有り様、面目ない。大方の評判は悪くなく一般紙も音楽新聞も好意的な批評を載せてくれた。

 この日をずっと心に期しておりそれをやっと果たしたにしてはリサイタルはあっけないものだった。デビューしたからといっていきなり指揮者が誕生するものじゃぁないと悟ったのはこの時だった。

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