渡部麗子先生
 1955年、高校生活もそろそろ終わりに近付いた頃、音楽部のコーラス好きが集まってクラブ活動とは別個にグループを作って純正調のハーモニーを響かせるようになっていた。

 音楽の宮嶋先生は世間でいう[芸術家肌]、気難しく且つ高邁な授業に生徒達はみな難渋していた。比較的面白かったのは ツェー・エー・ゲー、C・E・Gとドイツ音名でスタッカートで歌う[分散唱]、ピアノで響かせた和音の中のひとつを指示されてハミングで歌う[抽出唱]、3つに分かれて響かせる[カデンツ唱]などの音感訓練で日に日に響きが感じ取れるようになり「ハモッタ、ハモッタ!!」と喜んでいる内に聴覚が鋭敏になって行った。

 卒業も近付いたある日精鋭?だけで音楽会を開こうということになった。レパートリーも30曲程になっていてどの歌もピタッ、と倍音が響き文字どおりしびれていた12人、グループ名もAarie Chor(アーリーコール) と定め僕は指揮を担当した。思いきって借りた公会堂はクラスメイトや先輩達で満員になった。
「大学時代の友人だ」
と先生に楽屋で紹介して頂いたのが渡部(わたなべ)麗子先生だった。
「俺よりもっと本格的に音感教育に携わって来た人なんだ」
僕達はみな恐縮して立ちすくんでいた。

「とってもキレイで楽しい音感合唱だったわ」
音感合唱、という言葉はその時初めて聞いた。
「私達の先生の佐々木幸徳さんにも聞いて頂きたかったわねェ」
幸徳さんは[音感教育]創案者のおひとり、大勢の音楽家を世に送りだしてこられたかた。その一番弟子の渡部麗子さんのご指導を個人的に受けるようになったのはその直ぐ後だった。

 ほどなく国立入学、毎週久我山の研究所に通って厳格な聴覚訓練をして頂いた。幸徳さんの所にも何回か連れていかれたが実質的な指導はすべて渡部先生がしてくださった。以来40数年になる。
 耳が良くなるということは[耳が開かれる]ということ、それはとりもなおさず[心が開かれる〜精神が解放され自由になる]ということなんだと気づくのにそう長い時間は必要としなかった。

 昨今、早期教育の一環として音感訓練がもてはやされていると聞く、どうか[耳を開く〜心を開く〜精神を自由にする]という本質をまず正しく理解してから行われるように祈っている。

 渡部麗子先生、いつまでもご壮健でありますように。

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