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Jin's Diary&Essey

  #896
恩師・岡本敏明就職の頃
Date: 2017/02/09(Thu) 
 ワークショップの内容に就いてはまもなくチラシが出来上がりますのでそのときにここでもご紹介しましょう。

 きょうは、教育音楽家・岡本敏明が生まれるきっかけとなったエピソードをかいつまんでご紹介します。

 1929年、国立音楽学校 ( 創立当初は「東京高等音楽学院」やがて「国立音楽学校」となり、そして現在の「国立音楽大学」になる)を卒業した敏明は推薦してくれる人があって「成城学園」に小原国芳を訪ねた。
 
 3,4時間待たされたあと「やぁ、すまんすまん」と校長室に招き入れられて握手を交わした小原国芳は「一見壮士風の坊主頭、40がらみの偉丈夫だった・・・」と敏明は後に語っている。そのうえなんと「さあ、これから学校に行ってみよう、おい、車の用意」などと秘書に言いつける。敏明は「おかしいな、一体どこに行くのだろう」と思った。2時間ほども走って着いた所は小丘陵の一角、そこには働く大工さん達と半ば完成された校舎が一棟だけあった。

 夕焼けの丘に立って小原は敏明に言葉をかける「君、岡本君だったね、先方の丘を観なさい、あそこにチャペルが出来てパイプオルガンが入る、その後ろには大体育館と講堂も出来るんだぞ・・・」敏明は「この先生、少し ( … ) がいかれているのではないか、と正直思った」と回顧している。その日の夕食で頃合いを見計らって敏明は履歴書を小原先生に手渡そうとすると「ああ、もう君の事は決まったよ4月8日が入学式、4月2日が入学準備職員会だから10時に学園本部においで」???

 1929年4月2日、玉川学園創立準備職員会の席上で教頭さんから校歌の作詩を渡され「今日の会議中に作曲して欲しい」と言われる。そこにはピアノも何も無いので、近所の松林を逍遙しながら1時間ほどで作り,8人ほどの創立幹部の先生に歌唱指導した。

     ここからがいい話なので次ぎに続く