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Jin's Diary&Essey

  #872
態とらしく
Date: 2016/07/30(Sat) 
 作為的に・・という意味だ。
 テレビのドラマを観ていると態とらしい芝居ばかりで白けてしまう。映画でも特に日本のものはあり得ないような作為的な振る舞いや言動の連続で、「惹きこまれて観る」どころか「ぐっと離れて批判的になる」ばかり。かろうじて芝居(演劇)の世界の中でなんとかして"良い芝居"をするための懸命な努力を発見することがあるとホッとする。

 「小津安二郎」の映画が今も大勢人達の心を捉える、と云う事はあの画面に作為や態とらしさを見つけられずまるで日常生活の一部分を垣間見るような安堵感を覚えるからなのだろうと僕は思うのだがどうだろうか ? 。

 "自然に見えるような抑えた演技よりも大袈裟に表現し芝居するほうがずっと易しい…" とは、旧友の演出家の言だ。
 映画や芝居の話は素人だからこの辺りで控える事にして、昨今の創作曲合唱曲についていささか意見がある。

 まるで生の字句の羅列で熟れていない詞に輪をかけたような陳腐な和音の羅列、日本古来の豊かな旋律は無く聞く者の心を捉えて離さないリズム感も無い。

 そこに展開するのはただただ大袈裟に上り下がりする旋律とも言えないような音の暴力、知的なポリフォニーも無く繊細なハーモニーも無く喧しいだけの暴力的音の陳列だ。

 コンクールという本来プロ演奏家の登竜門に過ぎなかったものを敗戦後「せめて音楽でも世の中に広めて明るい日常を…」とでも考えたのか、シロート相手に歌や器楽を競わせ素朴な市民の情熱を刺激的な道に誘導しようとしたかに見えて仕方ない。

 小学生や中学生のようなまだ健全な感性が完成する前の純朴な人達のコンクールで上に述べたドラマの「態とらしさ」の更に上を行くような音楽を20も30も一日中聞かされていると「これではまともな音楽性は育たないだろう」と心配になる。まずは作曲家、編曲家そして指導者がこの「態とらしさ」に気づき、本来のノーマルにしてノーブルな音楽の響きの中に愛好者達をいざなう事を考えないと滅茶苦茶な世界になってしまうような気がするのは僕だけの被害妄想だろうか ?